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レス・イズ・モア(Less is More)とは
「レス・イズ・モア(Less is More)」とは、直訳すれば「少ないほど、豊かである」という概念です。この言葉は、近代建築の三大巨匠の一人と称される建築家、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエによって提唱されました。彼は、シンプルなデザインを追求することで、余計な装飾を削ぎ落とした先にこそ美しく豊かな空間が生まれるという信念をこの言葉に込めました。また、彼は「神は細部に宿る」というモットーを掲げたことでも知られています。
現代のマーケティングや社会課題の文脈において、この思想は重要な意味を持ちはじめています。かつては「より多くの機能」や「より多くの選択肢」を提供することが価値とされてきました。しかし、情報やモノが溢れ、人手不足や環境負荷が深刻化する現代社会では、生活者は過剰な豊かさに疲れ、管理の負担を感じるようになっています。そのため、単にモノを増やすのではなく、「なくしても、減らしても、幸せになれる体験」を見つけ、届けることが新たな価値創造の鍵となっています。
これは「節約」や「我慢」ではありません。本質的でない要素を意図的に削ぎ落とすことで、本当に大切な価値を際立たせ、生活の質を向上させるポジティブな選択です。例えば、過剰なサービスを省くことで個人の自由な時間を生み出したり、生産数を絞ることで製品の品質を極限まで高めたりするアプローチがこれに当たります。変化が激しく不確実な時代において、持続可能な豊かさを再定義するために、この「レス・イズ・モア」の視点は欠かせないものとなっています。
レス・イズ・モアが反映された社会・生活の変化や事例
社会・生活の変化や事例①:食品メーカーによる「新商品削減と定番への集中」
日本の食品メーカーでは、新商品の投入数を5年前と比較して23%減少させるという、顕著なレス・イズ・モアの動きが見られます。物価高によるコスト上昇も背景にありますが、これまで続いてきた「多産多死」のモデルを見直し、強力な「定番商品」に経営資源を集中させる戦略への転換が進んでいます。 消費者の選別が厳しくなる中、企業は市場分析と顧客の声をより深く反映させ、新商品を厳選するようになりました。無秩序に選択肢を増やすのではなく、ラインナップを「減らす」ことで、開発コストを抑えつつ、顧客にとって本当に価値のある商品を「より確実」に届ける。この効率的かつ本質的な運営は、飽食の時代における新しい付加価値の形となっています。
社会・生活の変化や事例②:公共施設の「縮充(しゅくじゅう)」戦略
人口減少社会に直面する自治体では、老朽化した施設をすべて維持するのではなく、数を減らしながら機能を高める「縮充」という考え方が浸透し始めています。代表的な事例が岩手県盛岡市です。市は老朽化した2つの野球場(県営と市営)を統合し、新たに1つの球場として整備しました。 その結果、利用者数は以前の6,000人弱から19万人超へと劇的に増加しました。施設数を「減らす」という決断を下し、その分リソースを集中させて質を「充実」させたことが、結果として地域住民により豊かな体験をもたらしたのです。利用状況の徹底的な分析に基づき、機能を維持・充実させながらスリム化を図るこの手法は、行政におけるレス・イズ・モアの優れた実践例です。
社会・生活の変化や事例③:Wildishによる「生産制限と持続可能性の両立」
イギリスのアウトドアバッグブランド「Wildish(ワイルディッシュ)」は、「1週間に25個以上はバッグを作らない」という独自の生産制限を設けています。彼らは急成長を追わず、環境負荷を抑え、ビジネスとして責任ある規模を維持することを目指しています。 職人を少数精鋭に絞り、世界各地のバッグ職人と契約して、それぞれの地域で採れた素材で製造・販売を行う「地産地消」のモデルを構築しています。生産量をあえて「絞る」ことで、製品の寿命を延ばす生涯保証や高品質なメンテナンスが可能になり、結果として顧客に「長く使い続ける」という深い満足感を提供しています。大量生産の対極にある、製品への愛情を最大化させるレス・イズ・モアの思想がここにあります。
社会・生活の変化や事例④:宿泊・飲食業における「過剰なおもてなし」の撤廃
人手不足が深刻な日本の宿泊・飲食業界では、従来の「過剰なサービス」を削ぎ落とすことで、新たな価値を生む取り組みが進んでいます。アパホテルはチェックインを自動化し、受付時間を20秒に短縮することでロビーの混雑というストレスを「なくし」ました。また、楽天ステイは食事サービスを廃止した「素泊まり」スタイルを強化し、顧客自らが調理を楽しむ体験を提案しています。 これらは、スタッフの負担を減らすだけでなく、生活者の「時間に縛られず自由に過ごしたい」という潜在的なニーズに応えたものです。過剰な接客を「減らす」ことが、結果として顧客の自由度と満足度を「もっと」高めるという、逆転の発想によるおもてなしの再構築が行われています。
社会・生活の変化や事例⑤:弔いの形を変える「墓じまいとデステック」
人生の終止符に関わる領域でも、レス・イズ・モアの動きが加速しています。墓の維持管理が負担となる中、墓を撤去する「墓じまい」の件数は10年で2倍に増え、管理不要な樹木葬や永代供養墓が一般墓の購入数を上回るようになりました。これは、次世代に負担を「残さない」という、現代的な家族の優しさの現れでもあります。 同時に、AIで故人を再現し対話する「デステック(Death Tech)」などの技術も登場しています。物理的な場所や儀式を「簡素化・削減」する一方で、デジタルや精神的な繋がりを「より身近に」保つという選択です。形式を重んじるこれまでの弔いから、個人の心に寄り添う本質的な形へと、レス・イズ・モアの視点による変化が進んでいます。



