この記事は、トレンドの原動力を探るマーケティングセミナー「よげんの書」で発表した「よげん」をトピックごとに解説した記事です。よげんの書のウェブサイトから無料セミナーのお申込みや、講演資料やアーカイブ動画をご覧いただけますので、ご関心ありましたらお申込みください。
自分の感情の音量を「ゼロ」にして生きる若者たち
博報堂生活総合研究所が発表した最新の研究レポートは、現代人の感情のあり方について非常に鋭利な分析を行っています。そこで提示されたのが「感情ミュート社会」というキーワードです。
職場でも、家庭でも、そしてSNS上でも、多くの人々が波風を立てることを極度に恐れ、あらゆる場面で自分の感情のスイッチを切り、音量をゼロに設定して生きるようになっているというのです。「怒らない」代わりに「喜びも表現しない」。「相手の感情に踏み込まない」代わりに「自分の感情にも触れさせない」。摩擦を究極まで避けるために、無機質でフラットなコミュニケーションを選択する人たちが確実にマジョリティになりつつあります。
しかし、人間である以上、感情そのものが消滅したわけではありません。ミュートされて行き場を失ったストレスや衝動は、どこへ向かうのでしょうか。それは「他人の強烈な感情の爆発を、安全な場所から見物する」という代替行為へと向かっています。YouTubeでの過激な炎上動画、SNSでの血みどろのレスバトル、政治家同士の罵倒し合う討論番組。自分自身は一切傷つかない「観客席」に座ったまま、他者が感情を剥き出しにして殴り合う姿を消費することで、自分の中の擬似的なカタルシスを得ているのです。
5人に1人が「AI恋人」と交流する世界の到来
この極端な感情ミュート社会と、親和性を見せて急成長しているのが「AIコンパニオン(AIのパートナーや恋人)」の市場です。現実の人間関係やマッチングアプリでの生々しい駆け引きに疲れ果てた若者たちが、絶対に自分を傷つけない理想のAIパートナーに安らぎを求め始めています。
ある調査によれば、アメリカの成人の19%(およそ5人に1人)が、すでにAIコンパニオンと何らかの会話をした経験を持つと答えています。若い世代に絞ればその比率はさらに高跳ね上がります。非常に興味深いのは、このAIコンパニオンに求める役割が、国や社会の文脈によって如実に異なるという点です。アメリカにおいては、若い男性が自分を無条件に肯定してくれる「AIのガールフレンド」を求める傾向が強い一方で、中国では、高学歴で大都市でハードに働く25〜35歳の自立した女性たちが、愚痴を聞き精神的にサポートしてくれる「AIのボーイフレンド」を強く求める傾向があります。それぞれの社会が抱えるジェンダーの役割分担やプレッシャーの歪みが、AIに対する欲求の形として明確に現れているのです。
「完璧な寄り添い」が奪うものと、未来のマーケティング
AIコンパニオンビジネスは、ユーザーがAIに依存すればするほど企業に利益をもたらすという構造を持っています。そしてここで生じる最大のリスクは、AIの「完璧な寄り添い」に慣れてしまった人間が、不完全で、時に不機嫌になり、欠点だらけの「生身の人間」とのコミュニケーションに全く耐えられなくなっていくという事態です。摩擦のない世界に長く居続ければ、摩擦を乗り越える力そのものが衰えていきます。
企業のアプローチも根底から問われます。自ら感情をミュートし、AIという完璧な防波堤の中へ引きこもろうとする生活者に対して、旧来のような「感動を煽る」プロモーションや「熱狂的な参加」を促すキャンペーンは、もはや彼らの心のバリアをすり抜けることはできません。静かな生活を望み、人間関係のノイズを嫌う消費者に対して、ブランドはいかにして「心地よい距離感」を保ちながら関係性を築いていくのか。感情をミュートした社会の先に、新しいコミュニケーションの戦場が広がっています。

