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インバウンド免税廃止論から見えてきた「二項対立」の罠
日本のマーケティング業界において、長きにわたって金言のように語られてきた「モノからコトへ」というキャッチフレーズがあります。時代は物質的な消費から体験重視の消費へとシフトしたのだ、と。しかし、この神話に対して、全く新しい視点からの重要な警鐘が鳴らされはじめています。
その議論のきっかけとなったのは、急増するインバウンド客に対する「消費税の免税制度廃止論」でした。一部の有識者からは、「今はもうモノの時代ではなくコト(体験)の時代なのだから、日本で物品をしこたま買わせるための免税制度など廃止して、体験型観光に注力すべきだ」という論調が持ち上がりました。一見すると非常にスマートで、時代の潮流を汲み取っているかのように聞こえます。
しかし、現場の実態をよく観察すると、この「モノとコトを切り離す二項対立」の考え方自体に大きな無理があることが浮かび上がってきました。旅行先で京都の素晴らしいお茶の作法(体験)に感動した外国人は、その記憶を留めたいがために美しい茶器(モノ)を購入します。熱狂的なアイドルのコンサート(体験)に行ったファンは、その余韻を語り合うためにツアーのTシャツ(モノ)を身に纏います。つまり、「コトの強烈な感動を自分の中に定着させ、記憶を拡張し続けるための最も有効な手段」として、人間は必然的にモノを消費するのです。
しかも、インバウンド客が日本に滞在できる絶対的な時間には当然ながら物理的な制約があります。どれほど素晴らしい体験プログラムを用意しても、1日の時間は24時間以上には増やせません。しかし、モノを買うという行為や金額には限界がありません。「コトの時代だからモノの免税はいらない」と切り捨てることは、ビジネスプロセスにおける甚大な機会損失であり、単なる思考停止であることを私たちは自覚しなければなりません。
時代を彩った美しいスローガンが招いた経営の迷走
歴史を少し遡ると、「モノからコトへ」というコンセプトに過剰に依存することの危うさを生々しく教えられる事例があります。
1980年代の終わり、西武百貨店は「ほしいものが、ほしいわ。」という鮮烈なキャッチコピーを世に放ちました。それは、モノを売るはずの百貨店が、意図的に物質的価値よりもライフスタイルや文化という「コト」の提供へと大きく舵を切るという、当時としては革命的な宣言でした。また、2000年代には日産自動車が「モノより思い出。」という名コピーを採用し、自動車という究極の耐久消費財のマーケティングにおいて、家族の絆や体験価値を前面に押し出しました。
どちらも、時代の空気を切り取った素晴らしいクリエイティブであり、消費者の心に深く刺さりました。しかし、その後の両社の経営はどうなったでしょうか。西武百貨店を抱えたセゾングループは解体され、圧倒的だったブランド力は失われて最終的に量販店に売却されました。日産もまた、深刻な業績不振に陥り外資の傘下に入って過酷なリストラと再建を余儀なくされました。
もちろんこれら企業の衰退には他にも無数の要因が複雑に絡み合っています。しかし、モノを作る、あるいはモノを売るという強固な本業の軸足を軽視して、「コト」という美しくも曖昧な価値へと過剰に傾斜していくことが、結果として企業のアイデンティティを崩壊させ、経営の方向性を著しく狂わせてしまうというリスクを、私たちはこうした歴史から学ぶべきなのです。
ディズニーと「推し活」が証明する最強の循環モデル
では、圧倒的に「コト」を成功させている企業は、モノを捨てているのでしょうか。その答えは、世界最高峰の体験を提供するディズニーリゾートの収益構造を見れば一目瞭然です。ディズニーリゾートの売上の約3割は「物販」が占めています。彼らは夢のような体験を提供する一方で、季節限定の特別なぬいぐるみや、その場でしか買えないカチューシャを常に投入し、ゲストの体験による「高揚感」を、確実に見事なまでに「モノの爆買い」へと変換しているのです。
また、現在日本国内で3.5兆円規模とも言われる巨大な「推し活」市場を見ても、その消費の中心はチケット代ではなく、実はアクリルスタンドやぬいぐるみといった物理的なグッズの購入に割かれています。推しを楽しむために必死でモノを買い漁り、自分の部屋を大好きなモノで満たすことで、日々その「余韻」を消費し続ける。
もはや時代は「モノからコトへ」ではありません。「コトの熱量を、どうやってシームレスにモノという実体価値に定着(変換)させるか」。この循環を地続きで緻密に設計できる企業だけが、次の市場を制することができるのです。

